2024年元日の16時10分にマグニチュード7.6、震度7の地震が発生した。
13年前の東日本大震災で被災したある少年と、当時から輪島市に在中していたある女性との手紙のやりとりがあり、少年を勇気づけていた。
そんな勇気づけていた女性の住む輪島市に大きな揺れを襲った。
少年を勇気づけた沢山の手紙
水を運ぶ少年
こちらは2011年の東日本大震災で水を運ぶ当時10歳の松本魁翔(まつもとかいと)さん。
両手に重いペットボトルを持ち、唇を噛みしめ、傷ついた街を背に歩くその姿に当時人々胸はを打たれていた。
今は宮城県気仙沼市の震災の記憶を伝える「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」に、展示されている。
当時の心境
(どのくらいの時間をかけて歩いた?)
「片道20分くらい、往復で40分くらい。生きるのに必死だったので、大変とか言っていられなかったのかなって思う」
魁翔さんの自宅は流され、一家はしばらく、親戚の家に身を寄せていました。
“少しでも、家族の役に立たなきゃ”という思いで、魁翔さんは7キロの水を手に、朝昼晩、1か月もの間歩き続けたのですが…
魁翔さん 「このとき釘を踏んでしまって。(釘を)踏んだと言うと、『行かなくて良い』と言われると思っていたので、(親に)言わないで運んでいました」
引用:Youtube
松本さんは母子家庭で、母親に負担をかけまいと10歳という幼さで必死に生きていた。
本来なら学校に行き友達と学び遊び、今日の出来事を楽しそうに母親に伝え食卓を囲んでいたであろう。
自宅を流されたため、1か月間朝昼晩と水を汲みに歩き続けていた。
釘を踏んでもグッと堪え、家族の支えになろうと歩き続けた。
10歳の幼い少年には酷だったことだろう。
励ましの手紙
引用:Youtube
当時メディアでとりあげられた少年の写真は大きな反響をよんだ。
全国から松本さん宛に励ましの手紙が寄せられた。
その中に石川県輪島市在中の沢田由紀子さんから寄せられた手紙には「仮設の生活は、いっぱい不便な事、嫌な事、あるでしょうが負けるな!」と綴られていた。
沢田さんはメディアで沢山ある写真のなかで、松本さんの写真が一番訴えられてきたと言う。
陶器店を営む沢田さんのお店では、松本さんの写真を切り取りポスターにして店頭に貼り、東北に支援を呼び掛けた。
松本さんはこの手紙の返事に「大好きな気仙沼、ぼくたちの代でりっぱにしていきたいです。その時は沢田さんをしょうたいするので元気でいてくださいね。やくそくですよ」と当時10歳の松本さんは自分が書ける範囲で精一杯のお礼の気持ちを綴っていた。
沢田さんは松本さんに取材動画で
「魁翔くん、元気にしていますか?つらいことや悲しいことにあっている人がいたら、くちびるかみしめて頑張ったみたいにみんなに寄り添って欲しいな。ずっと能登のおばちゃんは応援しています。ガンバレ、魁翔くん」
とエールを送っていた。
エールをくれた沢田さんの被災
引用:https://www.hungerzero.jp/activity/archives/202401/004056.html
元日に起きた地震で、沢田さんが住む輪島市が被災した。
動画のコメントの中では「沢田さんは無事なのか?」「今度は私たちが沢田さんを励ます番だ!」など沢田さんの安否の心配や励ますコメントが寄せられていた。
情報が少ないなか、とある記事を見つけた。
16時6分に携帯の緊急地震速報が鳴ったのでテレビで珠洲の地震の映像を見ていました。
すると突然、輪島市の映像に切り替わるやいなや「ガタガタガタガタ」ときて、びっくりしてテーブルの下に潜り込みました。
それでストーブを消して、老齢で目が見えなくなった猫ちやんを抱いてどうにか外に出ました。ほかの猫ちゃんもいたのですが、すぐに逃げたみたいです。
私はいま一人暮らしで、1階のお店でお正月の準備をしていました。いまは怖いので店の前の駐車場で車中泊を続けています。
引用:https://www.hungerzero.jp/activity/archives/202401/004056.html
沢田さんは無事だった。
自宅は全壊したが、お店は2007年の能登半島地震後に土台の補強工事をし、今回はかろうじて無事だったという。
こんなに心優しい人たちが、なぜ何度も辛い思いをしなければならないのか。
つくづく自然災害が憎い。
今はお店の前で車中泊をして過ごしているというが、1日でも早く日常にもどってほしいと願う。
まとめ
この度の令和6年能登半島地震により、犠牲となられた方々の御冥福をお祈りするとともに、被災された全ての皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
また、被災地域の皆様の安全確保と被災された皆様の生活が一日も早く平穏に復することをお祈り申し上げます。
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